経済大国

ドルショック

 1972年、アメリカのニクソン大統領は、中ソの対立という状況を背景に戦略的立場を有利にしようとして、前年国連での代表権を回復した中国をみずから訪問し、米中の敵対関係を終了させた(米中国交正常化)。米中の接近に続いて中国国内でも、毛沢東の死後に実権をにぎったケ小平の指導のもとで、文化大革命の「自力更生」路線から一転して西側先進国の資本と技術を導入して経済・社会の「現代化」が進められた。
 この間、アメリカ国内ではヴェトナム反戦運動が高揚し、泥沼化する戦争に対する世論の支持は急速に失われていった1973年、ヴェトナム和平協定が成立して、アメリカはヴェトナムから撤退した。
アメリカは西側諸国に莫大な軍事支出・対外援助を続けたうえ、復興した先進国からの対米輸出も急増したので、国際収支の悪化が深刻になった。1971年ニクソン大統領は新経済対策を発表して、金・ドル交換を停止し、ドルの基軸通貨としての地位は大きくゆらいだ(ドルショック)。
同年末には、10カ国蔵相会議の結果、円を1ドル=360円から308円に切り上げるなどの通貨調整が行われた。
その後に西欧諸国は、為替相場が実勢に応じて変動する変動為替相場制につぎつぎに移行し、1973年には日本もこれに従った。

石油ショック

 ついで1973年には「石油ショック」(第1次)がおこった。同年10月、第4次中東戦争が勃発すると、アラブ産油国でつくるOAPEC(アラブ石油輸出国機構)は、イスラエル寄りの欧米・日本に対する石油輸出制限と価格の4倍引き上げを実施した。
固定為替相場制のもとで基軸通貨ドルによって資本主義諸国経済が結びついていた戦後の世界経済の枠組(IMF体制)は、資本主義諸国の変動為替相場制移行でくずれ、また石油の低価格という経済成長の条件が失われた。長く続いた西側先進諸国の繁栄は1973年を境にかげりをみせ、資本主義世界は長期不況の時代に突入した。基軸国アメリカの後退に応じて、1975年には米日独英仏伊6カ国の首脳が会合して世界不況の深刻化への対応を協議し、翌年からカナダを加えて先進国首脳会議(サミット)が毎年開催され、貿易・通貨問題などの調整をはかるようになった。
1970年代半ばには、米ソ間の緊張緩和の動きが進んだ(デタント)。しかし、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻が転機となり、翌年の米大統領選でレーガンが当選すると「新冷戦」の時代がはじまった。
レーガン大統領は軍備拡大を行ういぽう、経済不振対策として企業活力を高めるための大幅減税・規制緩和を実施した。こうした政策は、同時期のイギリスのサッチャー政権が公共支出を押さえ、国有企業の民営化や労働運動の抑制を進めたのと同様、「新保守主義」の思想を背景としていた。

 後ろ盾を失った南ヴェトナムは1975年に崩壊し、ヴェトナム社会主義共和国のもとに南北の統一が実現した。また、この過程で多くの難民が生じ、日本をふくむ海外にも流出した(インドシナ難民問題)。
 第二次世界大戦後の中東ではパレスチナ問題が発生し、大油田の発見や米ソの介入もからんで紛争が続いた。ナチスの迫害をのがれてパレスチナに移住したユダヤ人はイスラエルを建国したが、これに反対するアラブ諸国との間で、すでに3次にわたる中東戦争(パレスチナ戦争、スエズ戦争、第3次中東戦争)が生じていた。